アバター

nakazo について

仲 悟志(団長・作、演出) 1970年富山県氷見市生まれ。 1995年、大阪芸術大学在学中に劇団を結成。劇作と演出を担当する。 1999年、映画監督柴田剛の長編『おそいひと』の企画と原作を担当。 2011年、富山短編映画祭の開催にあたり、短編映画制作の依頼を受けたことをきっかけに「劇団血パンダ」を結成。 以後、氷見市の商店街全体を舞台にした市街劇を皮切りに、富山県内各地の空き店舗や飲食店を利用して公演活動を行う。

オーディションに参加してきました。

先日、生まれて初めて役者のオーディションってやつを受けてきました。
9月に利賀で『ゴドーを待ちながら』を見てからこっち、ひょっとして自分は演劇について何か忘れているんじゃないかという疑いを持って、幾つか富山県内で行われた公演を見たのですが、どうもやっぱり忘れていることが多そうだったもので、ちょっと考えねばということになったところに募集があったもので、良い機会かと乗っかってみたものであります。

なんせ、「演劇をやっている」と言うと、自動的に役者だと思われるわけですけれども、ずっと台本を書いて演出をしている形で演劇をやっているので、役者の経験はほとんど無いのでした。
エントリー用紙に、舞台の出演歴とか書く欄があったんですが、いろいろとひっくり返してみたところ、2000年に大阪で今も活動しているオリゴ党にチョイ役で出演したのが役者としては最後で、そもそも自分の劇団では出演したこともなく、オリゴ党も主宰の岩橋さんが先輩なもので、「出ろ」「わかりました」式で出演しておるものです。
自分の役のキャラを明らかにする感じの台詞で、思わず息が切れて笑いを取ってしまった瞬間。今でも忘れません。

オーディションは、課題としていただいた台本を、とにかく演じられるだけ演じてみるというワークショップ式だったものですが、自分が素材になるというのは、なんとも不安なもので、とにかく貰った部分を手がかりに人物像の掘り下げを試みたところで、パッと見それを伝えられるレベルで表現できているのかというのが全く判断できず、加減ができない。圧倒的な場数の足りなさを感じたものです。
自分のイメージ通りの加減で見えているか、同じくオーディションに参加している相手とのコミュニケーションが取れている様に見えているのかと、ひたすら不安になりました。
これはまず、シーンを作るワークショップですが、オーディションとして要求されているのは、役者同士が会話してシーンを発生させることと理解したので、やっぱりなかなかできている気もしないまま、終わりの時間を迎えたものであります。

短時間で台本に書いてあることを何処まで読めるかというのはさておき、演じるにあたっての加減ができているのかというのはやはり、普段血パンダで演出として役者に対して、あるシーンの一部分のニュアンスを要求する際に考える演出視点の内部的な時間感覚と、こうした場で役者として演じるに当たって、どう演じるかを考える時に思い起こす役者としての時間感覚には、かなりの差があるものだと認識した次第。
血パンダでは、一本の芝居の中でひたすら、どんな風に思考しているのか、その流れは見て取れる様にという風に役者に要求していますが、なにせ私、作者でもあるわけで、台本の更にその奥も予め根底に持っているので、どうもこの演じるためにテキストを理解する時に、切り取って考えざるを得ない感覚について、いろいろと持ち帰って考えることになりました。

単にええ声で名台詞を述べていくだけの演劇なら問題ないかもしれませんが、やり取りや見て取れる距離感から人間像をどう表出させるか、その辺を細かく表現して調整するには演出の視点というのは必要だなとも感じます。客の前に客として存在している、居ない筈の何かですね。
そんなこんなで私の場合は、やっぱり、主演が演出を兼ねていたり、書いてる奴が演出も主演もやっている演劇にはとても懐疑的になってしまいます。そういうのは、はるか昔の夢の遊眠社で懲りているというか、あの、いいのかもしれないけど、戯曲読む方が圧倒的にステキとか、全員が台本をなぞって何かを口走り、発生している筈の関係性が空白になっている様に見えるみたいな観劇体験はもう、お腹いっぱいだなぁということも思い出して、更に明日はどっちだと訪ねて歩くものであります。

『どこかで』@石動シアター血パンダ 前口上

演劇が発生する瞬間について、ずっと考えています。
血パンダは最初から積極的に劇場を使わないで活動をしてきたのですが、富山のオルビスや富山市民プラザなどを幾度か利用して、やはり劇場の必要はないという考えに至りました。
劇場に足を運び、フィクションに没入する体験は、余所がお金と時間をかけてやっているので、血パンダでは日常に演劇が滑り込む瞬間についての考察をしていこう。関西で小劇場で演劇をやっている時から時間を経て、改めてそんな風にかんがえたものです。

ひょんなことから内川に稽古場ができて、その空間はとてもいい感じで利用できるし、実際好きなように作り込めます。
何もない場所から何かが発生する可能性は無限ですが、そこから発生させられる情報にはノイズも過剰さもありません。
日常からノイズや過剰さを排除したら、そこには何も残らないのではないか。
専用の空間の便利さは、そのまま弱さに通じるし、中途半端に具体化するくらいならば、場が感じさせる文脈ときちんと向き合う方が、様々な可能性を残しているだろう。では、どうするのか。

血パンダは、その「どうするのか」をずっと模索しています。

そういえば、今回のお芝居『どこかで』は、幾つかのキーワードと、「ギタリストだった父親の話し」と「お嫁さんと反りが合わないおばあさんのお話しを作っていく」という二つの話しを巡る雑談が交錯して、目の前で何が繰り広げられているのか、意味や背景の合理性を考え始めると、確実に集中力を消費します。目の前の現実をどこまで理解する必要があるのか。見て取れること、聞かなかったこと、言わなかったこと。問うてもどうにもならないこととどう向き合うのかは、日常を過ごすなかでもとても大きな問題ではないかと考えている次第。
なにはともあれ、演劇をどうぞ。

『どこかで』@小矢部

新湊、内川Studioに続き、小矢部にて『どこかで』を上演します。
チケットは、団員に声をかけていただくか、Peatixにて。
https://peatix.com/group/48977/events

シュールなシチュエーションの中、当たり前に続いていく会話。
現代口語劇と気鋭のクラリネット奏者のコラボレーション。
まちなかで思わず遭遇してしまう前衛劇をどうぞ。

10月19日:15時〜/19時〜
20日:15時〜/17時〜
小矢部・シアター血パンダ(小矢部市石動、寝具・きもの川島屋
作・演出/仲 悟志
出演/平岡 麻子、長澤 泰子、二上 満、金沢 一彦
客演/田林 甫奈美
クラリネット/西田 宏美(公式ページ

『どこかで』@内川studio 前口上

人は自分の見たいものしか見ないし、聞きたい様にしか聞かないものだといいます。
一緒に何かやっていたとしても、結局のところは、たまたま互いに噛み合っていたか、噛み合わせていただけで、そこには理解も誤解も無かったと判明する。
生きていれば誰にでも、そんな瞬間はそれなりにあるものでしょうか。

個人的には、基本路線を決めてしまうと感情や思惑とはあまり縁が無くなってしまう方で、そうしてあれこれ方向性やクオリティを上げることばかり考えて過ごしていると、人というのは、時間の経過に影響されてなのか、周りはいろいろと考えては理由を作って、軽やかに試行錯誤を放棄してしまう。
断絶というと重大な感じに見えますが、それに近いものはそこかしこにあって、実は最初から違う思惑でご一緒していたのだと判明して、なんともいえない思いをする。
何度やってもなかなかこれを防ぐ方法というのは、なかなか学習できないもので、巡り巡ってしょんぼりしてしまう事をどうにか避けたいと考えながら過ごしています。

最近、Netflixで配信されている『リラックマとカオルさん』が、どうしても泣けてしまい、どうやら自分が、状態の変化を予見して無力感を感じること、逆戻りできない形で変わってしまうことに強く反応してしまうのだと、感情のエラーに近い泣きのツボの様なものを発見しました。
昔、ロドリゴ・ガルシアの映画、『彼女を見ればわかること』を見たときも、ずっと嗚咽を堪える羽目になり、半日近く涙が出てどうしようも無かったことを思い出し、かといって、これを作品には上手くつなげられず、世の中というのは、他人との関係だけでなく、自分のことすらなかなか上手くいかないのだと再確認します。
それが試行錯誤のタネと思うと、結局は全てのスタートになる自分とどう向き合うのか、当たり前の堂々巡りを、ぐるりと見渡すことになるわけです。
研鑽はどこまでも続きます。

情報量、文脈。

そういえば、セリフ回しだけでなく、舞台と客席を直線的に分けて「正面」みたいなものを作ることも、ほぼ無くなってしまった。同時に、劇中、何処を見たらいいのかわからないという話しも聞く。
稽古中、役者たちには常に自分が舞台の中心に居る必要があるかの様に振る舞えと要求する。セリフを言う瞬間以外は息を殺して、そっと次の段取りに備える役者を邪魔くさく感じるからだ。
そう考えてみると、いろいろなことが並行して確認できていき、変化していった。

台本を書いていてふと、もう少し明確に思考の流れの様なものが意識できないかと思い至ると、誰も隅にやる必要が無くなってしまった。
一幕一場。モブの居ない台本ばかり書く様になったので、舞台上に見えている人間は、とにかく登場人物の誰もがずっと、明確に何かを考えている様に書く。

映画や演劇を観終わると、観客は概ねその内容を忘れてしまうそうだ。ほとんど残らない。
だからこそ前景化するものを絞り込んでしまえば良いということだろうが、観客の意識は本当にそう都合よく動くものだろうか。
マジシャンは視線をコントロールするだろうが、役者は息を殺して、何か見てはならないものになってしまうだけだ。黒子の衣装を着た見ない前提の人々でも、あらかじめモブと決められた人でもない、何かの目的で意識を薄くした人間だ。

だからこそ、逆に情報をとにかく絞り込まずに空間を作ってみようということになった。
劇場を使わずに借景が使える場所が良いと感じられる様になったのもそのためだ。
フレンチレストランの話しをカレー店で上演した時には、劇中では言及されるだけの厨房がカウンター越しに見えるスタイルの店舗だったことで、思わぬ文脈を得ることができた。
必要なのは本物そっくりのセットだろうか。そんな筈はない。我々はシュールレアリズム以後の世界を生きており、全く意図しなくても「解剖台のミシンと傘の偶然の出会い」の様なものに、生まれた時から晒されている。
だからこそ、そこにあるものにほんのひと押しするだけで、簡単に何らかの文脈は生まれる。演劇が発生する閾値は確実に低くなっており、台本の言葉を演じる役者が最も低コストの装置だ。
そして、身体性についてはとうに捨てると決めている。訓練された身体はそれだけで整理された記号の発生装置だ。
そんなわけで、前景化する情報を絞らないと決めてからは、思わぬ可能性だけになってしまった。台本を書いた時には意図しないニュアンスや因果関係の発生。ダブルミーニングの予感にまみれた稽古場を手に入れることになった。
恐らくまだまだ、どこまでも複雑になるし、交錯する文脈を整理する予定は無い。

9月28日、29日。新湊の新拠点、内川Studioにて新作、『どこかで』を上演します。
各回限定20席。チケットはPeatixからどうぞ。
https://blood-panda.peatix.com/

棒読み

役者にセリフを回させなくなってからかなり経つのだけれど、演劇関係者などから「棒読み」という指摘を受けることがある。
そんなにアニメーションを見ないからなのか、どういうジャンルの演劇を見慣れたら納得がいくのかわからないのだけれど、実は「棒読み」というのがよくわからなくなってからかなり時間が経っていて、台本を読んでもらっていても、セリフ特有の節回しの、乱暴に演劇的で大雑把な記号化によるロスの方が気になってしょうがない。
そもそも、場所の規模が小さい場合には、セリフではなく、言葉が発されることで得られる効果が大きいとのではないかという疑念を模索しているうちに、ゆっくりと、なにもかも変わってしまった。

実際、今やっている稽古を振り返っても、誰かの発した何らかの言葉を聞いての反応として、このセリフが出るなら、それはそんなタイミングだろうか。セリフを言い出す前に、それを言う相手に視線がいくとしたらどんなタイミングか、そうすると呼吸はどうなりそうか。そんなことばかり見ている。
今回は特に、どの瞬間に何処を見ているのか、どうしてそこを見るのか、見て息を吸うのか、吐くのかをずっと気にしている。
こうした実際に何かを言う前の動作や、視線を持っていくタイミングの方に、多くの刺激を感じる。
日常で何気なく垂れ流している喋ることに関連して生じる情報を再把握し、誇張せずに圧縮していく作業が、模索の中心になる。

文脈とは無関係に、この日本語なら概ねこう回すというやり方の上手い下手は、結局のところ役者の個体としての圧力しか生まない。
必然的に、人としての佇まいめいたものは、概ね身体性、身体表現の様なところに頼ることになるのだけれど、特になんの照明も当たらずに熱唱しているギター弾きのオッサンの舞台映えに驚き、音楽を羨むことはあっても、そこにどんな力が働いているのかという考察は、あまりされていないのではないだろうか。

ともあれ、血パンダでは身体表現や殺陣を伴わない日常の光景に近いフィクションをやることにしている。
ならば、日常にある身体のままで、どこまで圧力のある空間を作っていくのかということを考え続けている。

9月28日から新湊の新拠点、内川Studioにて新作、『どこかで』を上演します。
各回限定20席。チケットはPeatixからどうぞ。
https://blood-panda.peatix.com/

特になにもしないこと

そろそろ公演が近いので、忙しかろうがなんだろうがブログを書くなどして公演の宣伝に勤しまなければならない。

稽古をしていて、役者も徐々いろいろと練れていくわけだけれど、なにせ特に感情表現を完全に固めたり、登場人物の立ち位置や距離を決めてしまう様な演劇をやるわけでもないので、どのくらい思わぬいい瞬間をに出会えるかどうかが全てなので、ずっとセッションの打ち合わせをしている様なものだ。

先日、利賀村のシアターオリンピックスで『ゴドーを待ちながら』が上演されるということで、喜び勇んで見に行った。
幾度も読んだ台本なので、トルコ語で上演されていても視界の隅に字幕が出れば、どの辺かなんとなくわかるというのがまた、役者の力量をひしひしと感じることができて、演劇の力の様なものを実感できたわけだけれど、同時にこうじゃないなという落胆を感じた。
この方法で上演するなら、ベケットのゴドーも他の劇作家の戯曲も同じだ。
鍛えられた役者が正面を意識して立ち、渾身の力で演技をする様では、何もしない演劇の現在とは言えない。
このゴドーの演出に関して言えば、コントのひとつのシークエンスが終わったことを知らせるかの様な音と、「ゴドーを待つ」という度に出る嘆息の記号化があまりに露骨で、とにかく役者をむさぼり見るしかないのだと、全てを諦めさせられた。
確かに、ラッキーが長ゼリフを言い切った瞬間や、第二幕のウラジミールに思わず拍手しそうになった。
しかし、この時に感じた様な、思わぬ高揚感を全て捨て去った先にも、何かがあることは静かな演劇や現代口語劇が発見している筈だ。

正直なところ、ここまでストレートなものを今更見ることになるとも思っていなかったので、多少びびったが、役者の鍛えられ方自体は素晴らしかった。
同時に、こういう地点から、どこまで遠くなれるかという探索をしていることを再確認することになるわけで、力の限り行為する演劇から、どこまで離れられるかという模索は続いていく。

9月28日から新湊の新拠点、内川Studioにて新作、『どこかで』を上演します。
各回限定20席。チケットはPeatixからどうぞ。
https://blood-panda.peatix.com/

大好物の瞬間

書く台本が専ら日常系なので、日常に大好物な瞬間があります。

先日、友人が自動車の点検のためにディーラーに行かねばならんということで、他の用事のついでがあるものの時間的に行ったり来たりは無理ということで、同行することになりました。
私、無関係なのでとりあえず、ずっと息を殺してスマホを見ながら、会話は聞いているわけです。
「車でどこか気になるところはあるか?」と、担当者その1から友人に問いが行くわけですが、友人が「運転席側に人が座って、シートベルトしなかったら警告灯とか点かないのかな」と、問うたところ、「助手席に重い荷物を載せたりとか……」と、返事が始まります。二人で来てるわけで、とりあえず荷物きっかけで警告灯が気になったというのは、直近の現象としても適合しない気がします。
で、最初に対応してくれた彼は、「ちょっと聞いてきます」と退場するわけですが、次に登場した担当者2も、登場した瞬間に「助手席にお買い物の荷物を載せたりとか……」と始めるので、こいつはチェックのフローめいたマニュアルがあるなと感じ取れるわけです。
二人連れなので、子供なら後部席に乗って来ているかもしれない。助手席に乗って来たとしたら、シートベルトをしなかったけど、警告が出なかったというケースを先ず考えた方が普通じゃないかと考えるのが自然かと思うんですが、「運転席で警告灯に気付くとしたら」というシナリオを描いた場合は恐らく、「自分はシートベルトをしているのに、警告灯が点灯していた。助手席にはそこそこの重量の荷物を置いていた」というケースが最優先となっているのだと推察しました。
担当者2も、かなり懸命にフローチャートを踏襲している様子で、会話に時間をかけます。
担当者2はしかし、「あれ?このグレードの車に、助手席のシートベルト警告あったかな……」となって、ちょっと確認してきますとなりました。
で、担当者3が出て来て、また「助手席に荷物を……」と始めるんですが、最終的な結論としては「そもそも、そんな警告灯は装備していない」でした。このディーラーで扱っている車には、そういう機能が付いている方が少ない様な口ぶりでしたが、じゃぁ、どいつもこいつも、何に準拠して同じ流れから始めてるんやと、そこが非常に気になった次第。
人間、効率を求めて決め事をすると、基礎が揺らぎ、応用も利かなくなるという好例を見た様に思います。

もうひとつ。
先日、信号が青に変わったので発進したところ、信号無視で車が突っ込んで来て、事故を食らいました。
相手は、内定者懇談会とかいう謎のイベントに招集された大学四年生。会場が見えたので思わず気を取られたそうです。
非常に暑い日で、他にも事故が沢山あったらしく、おまわりに散々待たされている間に、向こうの保険の担当者が到着しました。流れで現場検証も終わっても保険屋は現場に居て、動かなくなった二人の車の回収待ち。
どうしたものかなぁという空気になったので、「保険屋さんさ、ちょっとパシらない?」と、500円玉を差し出したら、やや戸惑いながら500円玉を手に取ったわけです。
「パシ?なんですか?」
と問われるので、「パシリですよ。ええっと、お使い。お願いできませんか?」と噛み砕いて、まだまともに呼吸ができていない様なので、更に畳み掛けます。
「俺たちここでレッカー待っとくから、かわりにさっと、そこのコンビニ行ってきて欲しいなぁ。三人分。何飲みます?」
と、保険屋はそこで完全にフリーズです。表情からは戸惑いの色しか読み取れません。初体験ですかね。
青年に視線をやれば「いや、とんでもないです。すいません。大丈夫です」と反応があります。
「いいの?マジで?」と問いますが、固辞は変わりません。
保険屋は社会人何年目か知らないけど、青年の方が自分の呼吸ができていて、言葉が出て来くるわけで、たいしたものです。
保険屋の彼は、現場の通常のルーチンから外れた瞬間に呼吸が乱れて固まるのは、大人としてどうかしら。被害者と加害者の間に居て、被害者からお金出されて飲み物奢られるとか、そもそもどういう意図のものでもダメかもしれないなぁと推察するんですが、変な顔をしたままフリーズされると、「しょうがない。じゃぁちょっとあそこに見えてる自販機で……」と、一人で冷たい麦茶を飲むことになってしまって、ちょっと申し訳なかったものです。
いや、古いボロ車に乗っているもので、車がちゃんと修理されてくるのかはとても心配なんですが……。

ルーチンで喋る。呼吸を乱す。よくあるやつですね。
演劇がコミュニケーションの役に立つとか、毎度眉唾だなぁと思っていて、セリフ喋る人にも妙なルーチン感のある人や、そこでその呼吸か?浅くね?と見える役者、呼吸と声色やら口調がちぐはぐな器用な人も見かけることがあります。
血パンダでも、久々に、基礎練を整理しようかと思ってますが、やってると比較的簡単に、500円玉握らせたりとかできる様になります。案外、役に立つんですよ。

役者への要求

言い出しから口を閉じるまで、突然そのセリフの中だけで完結する感情表現を見るとつい、その前後の気持ちや思考はどうだったのか、言いながら、言い終わるまでに考えたことは無いかという質問をしてしまう。
喋りかけている様に見て取れる相手が居ればなおさら、その口調から現れる心持ちを、全て相手に見せてぶつけて良い瞬間か、それが妥当なのか。役者がどう感じて口走っているのかが気になる。

今演じて見せてくれた何処かでも見た気がする記号表現は、今の瞬間に本当に適しているのか、もっと緻密にできないのかという要求につながっていくのだけれど、それをスタートラインにして、実際にやってみてもらうことは、この「緻密」という言葉のイメージに反して、何もしないで喋ってみるところからになる。
一旦、感情が動いた様に見える喋りを捨てて、相手とどんな距離を取り、相手に対してどんな風に視線を送るかということの確認からスタートして、とにかく妥当さを模索し、可能な表現の経路を探る。

腹式呼吸で、正面を意識してという様式からスタートした作業のうちにか、何かモデルを見つけての模倣の作業うちにか、結局は、意味内容を把握する作業が抜け落ちた果てを多く見ている。そういった様式の緻密さだけで構成されていれば、それはそれで見ていられるが、残念ながら、面白いと感じられるものに出会える可能性は、田舎に住んでいると極めて低い。
そしてこれは残念ながら、一度この様式の範疇の集団だとわかって、つまらなかったら、どんな風に手を替え品を替えられても同じ結果になる。個人の様式への練度が集合しているだけの集団に自然に発生するカラーというのはそういうものだ。
実際、血パンダにも、本番の時点で出てしまう様式めいたものは存在している。

どんな要求をされるのが普通で、何を手がかりにして何を模索するのが稽古だと認識されているのかも、それぞれの集団で基準があるだろうが、最終的に空疎な記号だけを段取りよく並べられても、こちらとしては、結局その段取りの隙を見る結果になってしまう。
なにかもっと良い方法は無いものだろうかと考えてしまうが、結局は稽古場であれこれ模索しながら考えていくしかない。