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nakazo について

仲 悟志(団長・作、演出) 1970年富山県氷見市生まれ。 1995年、大阪芸術大学在学中に劇団を結成。劇作と演出を担当する。 1999年、映画監督柴田剛の長編『おそいひと』の企画と原作を担当。 2011年、富山短編映画祭の開催にあたり、短編映画制作の依頼を受けたことをきっかけに「劇団血パンダ」を結成。 以後、氷見市の商店街全体を舞台にした市街劇を皮切りに、富山県内各地の空き店舗や飲食店を利用して公演活動を行う。

演劇の見せ方をアップデートしろですって

野田秀樹が演劇が死ぬとか言って非難されていて、軽く大騒動の流れで、演劇も配信でもして、マネタイズ方法をアップデートせぇよとか、適当なことを抜かす連中も居るので、先日から、無観客上演について考えていた。
あ、芸術なんてずっと死んだり死ななかったりしていたので、演劇が死ぬとか死なないとか言ったところで、死ぬわけがないかとっくに死んでるか、とりあえずなんでも字義通りに受け止めたり、新型ウイルスに感染云々は、やめて考えた方がいいんじゃなかろうか。問題は政府の思いつきに対する、みんなの反応ね。
ついでに言えば、血パンダは無観客でもやります。俺が見る。生だから以前に、見る度にニュアンス違う可能性が出るように作っているので、普通に客席で見たいわ。制作費の自電車操業のチェーンが切れるのは、ちょっと嫌なだけですね。嫌だな。

ところで、演劇を映像に収める方法ですよ。他は知らんけど、血パンダの場合。
日常の行為と同じ熱量でやるし、客席と舞台を完全に分断するなんてことはとっくに捨てているので、いい感じで場内の何処かに居る感覚に似たものを再現できれば、ある程度はいけるんじゃないかと考えた。
行為の熱量を上げることで、見て取れる情報量を減らすのが一番の問題なので、過剰さ前提。複数の定点カメラからの映像をそのまま見るのが一番だ。
その時点でわけがわからないってことなら、単に血パンダは君向けじゃない。劇場中継なら昔からどこでもやってるから、そっちのブラッシュアップを待ってください。

とりあえずの思いつきとしては、360度カメラが2台と、同じく一眼が2台。マイク。一画面に4視点を全て並列に出す。画面の前に居て、他人の気配が無い状態だけど、情報量の過剰さだけならなんとかなる気がする。そのくらいあれば、稽古の過程で見たり考えたりしている最低限の視点がおさえられる筈。書いて演出する人間の視点を基準に考えるってことで、そこは上から目線じゃなくて、誠実さと捉えてほしい。秘密は何もない。

配信するなら、そいつらを同時にPCに放り込んで4画面そのまま出す。
もうちょっと調べてみんとわからんけど、なんやかんやでカメラ間のラグで死にそうだし、機材費はどのくらいかかるんだろ。
中古機材あるよとか、お金とか支援してくれるなら喜んで。ブツや金額によっては、配信も生血パンダも招待しちゃう。
まぁ、そのうち実験してみよう。

『ときはててのち』前口上

何か一通りの出来事の後になって、あの時、あの頃の答え合わせをしようとしても、実際には時間が戻るわけでも事実が変わるわけでもないので、結局はなんにもならない。よくあることかと思います。
現実がどうかを見るまでもなく、多くのフィクションの中でも、何かの真相を探り、求めていた答えを得て、さてどうするという場面が発生する時によくあるやつです。
復讐を果たしても死んだ人間は戻らない事実と直面し葛藤するなどは定番の展開と言えるでしょう。
そうでなくとも、物語が動く大きな動機ではあったものの、展開していくうちに重要な要素であることには変わりないものの、ひとつの通過点に過ぎなくなっている場合が見られます。

『覆水盆に返らず』という諺を思いおこすまでもなく、我々は不可逆の時間の中を生きていて、その中で考え、行動し、また、考えを翻したりします。
「あの時」として思い出されるものについて考える時、私たちは一体なにを求めているのでしょうか。
なんらかのやり直しや軌道修正。または、二の轍は踏まずという確認作業。果たしてその結果として、どんな今後を求めていくことになるのでしょうか。
常に『塞翁が馬』であるために必要なことは何か、そんなことをずっと考え続け、模索している様に思います。

『ときはててのち』チケット販売開始します。

Peatixにて、チケット販売を開始しています。
https://peatix.com/group/48977/events
各回限定20席

チケットはPeatixの他、富山市常盤町のリペアクラブ、呉羽駅前野口屋でも購入できます。
※先にFacebook、Twitter、LINEなどで一報いただけると、確実です。
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2020年2月19日(水)19時〜
22日(土)16時〜/19時〜
23日(日)16時〜
@内川Studio
当前共1,500円(リピート500円)

作・演出 仲 悟志

出演
金澤 一彦
こしばたくみ(劇団ふだい)
田林 甫奈美(フリー)
長澤 泰子
平岡 麻子
二上 満

試験放送第二弾

気がつけば、孤独だけが隣に居たとしても。
あの日、あの時、思わず飲み込んだ言葉に溺れて、息ができなくなったとしても。
ゆっくりと、心の在り処をさぐろう。少しだけ遠くを見て、聞こえてくる声に耳を傾けて。
月も星も、ただ遠くで光っているだけだろうか。太陽はただ無情に時を溶かしていくだけだろうか。
もう一度、何度でも、力を込めて、拳を握りしめて。
血パンダ放送局『パイセンのラジオ』本日も、内川Studioから泰子先輩がお送りします。

ラジオ始めます。

ラジオを始める段取りをしています。とりあえず試験放送。
『パイセンのラジオ』
血パンダの泰子先輩が、本拠地の内川スタジオから、そもそもどう段取るのかというレベルから、段取りを探りながらお送りします。
本放送開始に向けて、皆さんからのお便りも待ってます。

パーソナリティ:長澤 泰子(パイセン)
アシスタント:田林 甫奈美(ほーさん)
ディレクター:二上 満(たふさん/餅キング)

『ときはててのち』

血パンダ初のSF日常演劇。
時間の流れと空間の連続性がいい加減になって、文明社会が軽く崩壊した後のお話しです。

2020年2月19日(水)19時〜
22日(土)16時〜/19時〜
23日(日)16時〜
@内川Studio
当前共1,500円(リピート500円)

作・演出 仲 悟志
出演
金澤 一彦
こしばたくみ(劇団ふだい)
田林 甫奈美(フリー)
長澤 泰子
平岡 麻子
二上 満

オーディションに参加してきました。

先日、生まれて初めて役者のオーディションってやつを受けてきました。
9月に利賀で『ゴドーを待ちながら』を見てからこっち、ひょっとして自分は演劇について何か忘れているんじゃないかという疑いを持って、幾つか富山県内で行われた公演を見たのですが、どうもやっぱり忘れていることが多そうだったもので、ちょっと考えねばということになったところに募集があったもので、良い機会かと乗っかってみたものであります。

なんせ、「演劇をやっている」と言うと、自動的に役者だと思われるわけですけれども、ずっと台本を書いて演出をしている形で演劇をやっているので、役者の経験はほとんど無いのでした。
エントリー用紙に、舞台の出演歴とか書く欄があったんですが、いろいろとひっくり返してみたところ、2000年に大阪で今も活動しているオリゴ党にチョイ役で出演したのが役者としては最後で、そもそも自分の劇団では出演したこともなく、オリゴ党も主宰の岩橋さんが先輩なもので、「出ろ」「わかりました」式で出演しておるものです。
自分の役のキャラを明らかにする感じの台詞で、思わず息が切れて笑いを取ってしまった瞬間。今でも忘れません。

オーディションは、課題としていただいた台本を、とにかく演じられるだけ演じてみるというワークショップ式だったものですが、自分が素材になるというのは、なんとも不安なもので、とにかく貰った部分を手がかりに人物像の掘り下げを試みたところで、パッと見それを伝えられるレベルで表現できているのかというのが全く判断できず、加減ができない。圧倒的な場数の足りなさを感じたものです。
自分のイメージ通りの加減で見えているか、同じくオーディションに参加している相手とのコミュニケーションが取れている様に見えているのかと、ひたすら不安になりました。
これはまず、シーンを作るワークショップですが、オーディションとして要求されているのは、役者同士が会話してシーンを発生させることと理解したので、やっぱりなかなかできている気もしないまま、終わりの時間を迎えたものであります。

短時間で台本に書いてあることを何処まで読めるかというのはさておき、演じるにあたっての加減ができているのかというのはやはり、普段血パンダで演出として役者に対して、あるシーンの一部分のニュアンスを要求する際に考える演出視点の内部的な時間感覚と、こうした場で役者として演じるに当たって、どう演じるかを考える時に思い起こす役者としての時間感覚には、かなりの差があるものだと認識した次第。
血パンダでは、一本の芝居の中でひたすら、どんな風に思考しているのか、その流れは見て取れる様にという風に役者に要求していますが、なにせ私、作者でもあるわけで、台本の更にその奥も予め根底に持っているので、どうもこの演じるためにテキストを理解する時に、切り取って考えざるを得ない感覚について、いろいろと持ち帰って考えることになりました。

単にええ声で名台詞を述べていくだけの演劇なら問題ないかもしれませんが、やり取りや見て取れる距離感から人間像をどう表出させるか、その辺を細かく表現して調整するには演出の視点というのは必要だなとも感じます。客の前に客として存在している、居ない筈の何かですね。
そんなこんなで私の場合は、やっぱり、主演が演出を兼ねていたり、書いてる奴が演出も主演もやっている演劇にはとても懐疑的になってしまいます。そういうのは、はるか昔の夢の遊眠社で懲りているというか、あの、いいのかもしれないけど、戯曲読む方が圧倒的にステキとか、全員が台本をなぞって何かを口走り、発生している筈の関係性が空白になっている様に見えるみたいな観劇体験はもう、お腹いっぱいだなぁということも思い出して、更に明日はどっちだと訪ねて歩くものであります。

『どこかで』@石動シアター血パンダ 前口上

演劇が発生する瞬間について、ずっと考えています。
血パンダは最初から積極的に劇場を使わないで活動をしてきたのですが、富山のオルビスや富山市民プラザなどを幾度か利用して、やはり劇場の必要はないという考えに至りました。
劇場に足を運び、フィクションに没入する体験は、余所がお金と時間をかけてやっているので、血パンダでは日常に演劇が滑り込む瞬間についての考察をしていこう。関西で小劇場で演劇をやっている時から時間を経て、改めてそんな風にかんがえたものです。

ひょんなことから内川に稽古場ができて、その空間はとてもいい感じで利用できるし、実際好きなように作り込めます。
何もない場所から何かが発生する可能性は無限ですが、そこから発生させられる情報にはノイズも過剰さもありません。
日常からノイズや過剰さを排除したら、そこには何も残らないのではないか。
専用の空間の便利さは、そのまま弱さに通じるし、中途半端に具体化するくらいならば、場が感じさせる文脈ときちんと向き合う方が、様々な可能性を残しているだろう。では、どうするのか。

血パンダは、その「どうするのか」をずっと模索しています。

そういえば、今回のお芝居『どこかで』は、幾つかのキーワードと、「ギタリストだった父親の話し」と「お嫁さんと反りが合わないおばあさんのお話しを作っていく」という二つの話しを巡る雑談が交錯して、目の前で何が繰り広げられているのか、意味や背景の合理性を考え始めると、確実に集中力を消費します。目の前の現実をどこまで理解する必要があるのか。見て取れること、聞かなかったこと、言わなかったこと。問うてもどうにもならないこととどう向き合うのかは、日常を過ごすなかでもとても大きな問題ではないかと考えている次第。
なにはともあれ、演劇をどうぞ。