オーディションに参加してきました。

先日、生まれて初めて役者のオーディションってやつを受けてきました。
9月に利賀で『ゴドーを待ちながら』を見てからこっち、ひょっとして自分は演劇について何か忘れているんじゃないかという疑いを持って、幾つか富山県内で行われた公演を見たのですが、どうもやっぱり忘れていることが多そうだったもので、ちょっと考えねばということになったところに募集があったもので、良い機会かと乗っかってみたものであります。

なんせ、「演劇をやっている」と言うと、自動的に役者だと思われるわけですけれども、ずっと台本を書いて演出をしている形で演劇をやっているので、役者の経験はほとんど無いのでした。
エントリー用紙に、舞台の出演歴とか書く欄があったんですが、いろいろとひっくり返してみたところ、2000年に大阪で今も活動しているオリゴ党にチョイ役で出演したのが役者としては最後で、そもそも自分の劇団では出演したこともなく、オリゴ党も主宰の岩橋さんが先輩なもので、「出ろ」「わかりました」式で出演しておるものです。
自分の役のキャラを明らかにする感じの台詞で、思わず息が切れて笑いを取ってしまった瞬間。今でも忘れません。

オーディションは、課題としていただいた台本を、とにかく演じられるだけ演じてみるというワークショップ式だったものですが、自分が素材になるというのは、なんとも不安なもので、とにかく貰った部分を手がかりに人物像の掘り下げを試みたところで、パッと見それを伝えられるレベルで表現できているのかというのが全く判断できず、加減ができない。圧倒的な場数の足りなさを感じたものです。
自分のイメージ通りの加減で見えているか、同じくオーディションに参加している相手とのコミュニケーションが取れている様に見えているのかと、ひたすら不安になりました。
これはまず、シーンを作るワークショップですが、オーディションとして要求されているのは、役者同士が会話してシーンを発生させることと理解したので、やっぱりなかなかできている気もしないまま、終わりの時間を迎えたものであります。

短時間で台本に書いてあることを何処まで読めるかというのはさておき、演じるにあたっての加減ができているのかというのはやはり、普段血パンダで演出として役者に対して、あるシーンの一部分のニュアンスを要求する際に考える演出視点の内部的な時間感覚と、こうした場で役者として演じるに当たって、どう演じるかを考える時に思い起こす役者としての時間感覚には、かなりの差があるものだと認識した次第。
血パンダでは、一本の芝居の中でひたすら、どんな風に思考しているのか、その流れは見て取れる様にという風に役者に要求していますが、なにせ私、作者でもあるわけで、台本の更にその奥も予め根底に持っているので、どうもこの演じるためにテキストを理解する時に、切り取って考えざるを得ない感覚について、いろいろと持ち帰って考えることになりました。

単にええ声で名台詞を述べていくだけの演劇なら問題ないかもしれませんが、やり取りや見て取れる距離感から人間像をどう表出させるか、その辺を細かく表現して調整するには演出の視点というのは必要だなとも感じます。客の前に客として存在している、居ない筈の何かですね。
そんなこんなで私の場合は、やっぱり、主演が演出を兼ねていたり、書いてる奴が演出も主演もやっている演劇にはとても懐疑的になってしまいます。そういうのは、はるか昔の夢の遊眠社で懲りているというか、あの、いいのかもしれないけど、戯曲読む方が圧倒的にステキとか、全員が台本をなぞって何かを口走り、発生している筈の関係性が空白になっている様に見えるみたいな観劇体験はもう、お腹いっぱいだなぁということも思い出して、更に明日はどっちだと訪ねて歩くものであります。