情報量、文脈。

そういえば、セリフ回しだけでなく、舞台と客席を直線的に分けて「正面」みたいなものを作ることも、ほぼ無くなってしまった。同時に、劇中、何処を見たらいいのかわからないという話しも聞く。
稽古中、役者たちには常に自分が舞台の中心に居る必要があるかの様に振る舞えと要求する。セリフを言う瞬間以外は息を殺して、そっと次の段取りに備える役者を邪魔くさく感じるからだ。
そう考えてみると、いろいろなことが並行して確認できていき、変化していった。

台本を書いていてふと、もう少し明確に思考の流れの様なものが意識できないかと思い至ると、誰も隅にやる必要が無くなってしまった。
一幕一場。モブの居ない台本ばかり書く様になったので、舞台上に見えている人間は、とにかく登場人物の誰もがずっと、明確に何かを考えている様に書く。

映画や演劇を観終わると、観客は概ねその内容を忘れてしまうそうだ。ほとんど残らない。
だからこそ前景化するものを絞り込んでしまえば良いということだろうが、観客の意識は本当にそう都合よく動くものだろうか。
マジシャンは視線をコントロールするだろうが、役者は息を殺して、何か見てはならないものになってしまうだけだ。黒子の衣装を着た見ない前提の人々でも、あらかじめモブと決められた人でもない、何かの目的で意識を薄くした人間だ。

だからこそ、逆に情報をとにかく絞り込まずに空間を作ってみようということになった。
劇場を使わずに借景が使える場所が良いと感じられる様になったのもそのためだ。
フレンチレストランの話しをカレー店で上演した時には、劇中では言及されるだけの厨房がカウンター越しに見えるスタイルの店舗だったことで、思わぬ文脈を得ることができた。
必要なのは本物そっくりのセットだろうか。そんな筈はない。我々はシュールレアリズム以後の世界を生きており、全く意図しなくても「解剖台のミシンと傘の偶然の出会い」の様なものに、生まれた時から晒されている。
だからこそ、そこにあるものにほんのひと押しするだけで、簡単に何らかの文脈は生まれる。演劇が発生する閾値は確実に低くなっており、台本の言葉を演じる役者が最も低コストの装置だ。
そして、身体性についてはとうに捨てると決めている。訓練された身体はそれだけで整理された記号の発生装置だ。
そんなわけで、前景化する情報を絞らないと決めてからは、思わぬ可能性だけになってしまった。台本を書いた時には意図しないニュアンスや因果関係の発生。ダブルミーニングの予感にまみれた稽古場を手に入れることになった。
恐らくまだまだ、どこまでも複雑になるし、交錯する文脈を整理する予定は無い。

9月28日、29日。新湊の新拠点、内川Studioにて新作、『どこかで』を上演します。
各回限定20席。チケットはPeatixからどうぞ。
https://blood-panda.peatix.com/