役者への要求

言い出しから口を閉じるまで、突然そのセリフの中だけで完結する感情表現を見るとつい、その前後の気持ちや思考はどうだったのか、言いながら、言い終わるまでに考えたことは無いかという質問をしてしまう。
喋りかけている様に見て取れる相手が居ればなおさら、その口調から現れる心持ちを、全て相手に見せてぶつけて良い瞬間か、それが妥当なのか。役者がどう感じて口走っているのかが気になる。

今演じて見せてくれた何処かでも見た気がする記号表現は、今の瞬間に本当に適しているのか、もっと緻密にできないのかという要求につながっていくのだけれど、それをスタートラインにして、実際にやってみてもらうことは、この「緻密」という言葉のイメージに反して、何もしないで喋ってみるところからになる。
一旦、感情が動いた様に見える喋りを捨てて、相手とどんな距離を取り、相手に対してどんな風に視線を送るかということの確認からスタートして、とにかく妥当さを模索し、可能な表現の経路を探る。

腹式呼吸で、正面を意識してという様式からスタートした作業のうちにか、何かモデルを見つけての模倣の作業うちにか、結局は、意味内容を把握する作業が抜け落ちた果てを多く見ている。そういった様式の緻密さだけで構成されていれば、それはそれで見ていられるが、残念ながら、面白いと感じられるものに出会える可能性は、田舎に住んでいると極めて低い。
そしてこれは残念ながら、一度この様式の範疇の集団だとわかって、つまらなかったら、どんな風に手を替え品を替えられても同じ結果になる。個人の様式への練度が集合しているだけの集団に自然に発生するカラーというのはそういうものだ。
実際、血パンダにも、本番の時点で出てしまう様式めいたものは存在している。

どんな要求をされるのが普通で、何を手がかりにして何を模索するのが稽古だと認識されているのかも、それぞれの集団で基準があるだろうが、最終的に空疎な記号だけを段取りよく並べられても、こちらとしては、結局その段取りの隙を見る結果になってしまう。
なにかもっと良い方法は無いものだろうかと考えてしまうが、結局は稽古場であれこれ模索しながら考えていくしかない。