特になにもしないこと

そろそろ公演が近いので、忙しかろうがなんだろうがブログを書くなどして公演の宣伝に勤しまなければならない。

稽古をしていて、役者も徐々いろいろと練れていくわけだけれど、なにせ特に感情表現を完全に固めたり、登場人物の立ち位置や距離を決めてしまう様な演劇をやるわけでもないので、どのくらい思わぬいい瞬間をに出会えるかどうかが全てなので、ずっとセッションの打ち合わせをしている様なものだ。

先日、利賀村のシアターオリンピックスで『ゴドーを待ちながら』が上演されるということで、喜び勇んで見に行った。
幾度も読んだ台本なので、トルコ語で上演されていても視界の隅に字幕が出れば、どの辺かなんとなくわかるというのがまた、役者の力量をひしひしと感じることができて、演劇の力の様なものを実感できたわけだけれど、同時にこうじゃないなという落胆を感じた。
この方法で上演するなら、ベケットのゴドーも他の劇作家の戯曲も同じだ。
鍛えられた役者が正面を意識して立ち、渾身の力で演技をする様では、何もしない演劇の現在とは言えない。
このゴドーの演出に関して言えば、コントのひとつのシークエンスが終わったことを知らせるかの様な音と、「ゴドーを待つ」という度に出る嘆息の記号化があまりに露骨で、とにかく役者をむさぼり見るしかないのだと、全てを諦めさせられた。
確かに、ラッキーが長ゼリフを言い切った瞬間や、第二幕のウラジミールに思わず拍手しそうになった。
しかし、この時に感じた様な、思わぬ高揚感を全て捨て去った先にも、何かがあることは静かな演劇や現代口語劇が発見している筈だ。

正直なところ、ここまでストレートなものを今更見ることになるとも思っていなかったので、多少びびったが、役者の鍛えられ方自体は素晴らしかった。
同時に、こういう地点から、どこまで遠くなれるかという探索をしていることを再確認することになるわけで、力の限り行為する演劇から、どこまで離れられるかという模索は続いていく。

9月28日から新湊の新拠点、内川Studioにて新作、『どこかで』を上演します。
各回限定20席。チケットはPeatixからどうぞ。
https://blood-panda.peatix.com/