『どこかで』@内川studio 前口上

人は自分の見たいものしか見ないし、聞きたい様にしか聞かないものだといいます。
一緒に何かやっていたとしても、結局のところは、たまたま互いに噛み合っていたか、噛み合わせていただけで、そこには理解も誤解も無かったと判明する。
生きていれば誰にでも、そんな瞬間はそれなりにあるものでしょうか。

個人的には、基本路線を決めてしまうと感情や思惑とはあまり縁が無くなってしまう方で、そうしてあれこれ方向性やクオリティを上げることばかり考えて過ごしていると、人というのは、時間の経過に影響されてなのか、周りはいろいろと考えては理由を作って、軽やかに試行錯誤を放棄してしまう。
断絶というと重大な感じに見えますが、それに近いものはそこかしこにあって、実は最初から違う思惑でご一緒していたのだと判明して、なんともいえない思いをする。
何度やってもなかなかこれを防ぐ方法というのは、なかなか学習できないもので、巡り巡ってしょんぼりしてしまう事をどうにか避けたいと考えながら過ごしています。

最近、Netflixで配信されている『リラックマとカオルさん』が、どうしても泣けてしまい、どうやら自分が、状態の変化を予見して無力感を感じること、逆戻りできない形で変わってしまうことに強く反応してしまうのだと、感情のエラーに近い泣きのツボの様なものを発見しました。
昔、ロドリゴ・ガルシアの映画、『彼女を見ればわかること』を見たときも、ずっと嗚咽を堪える羽目になり、半日近く涙が出てどうしようも無かったことを思い出し、かといって、これを作品には上手くつなげられず、世の中というのは、他人との関係だけでなく、自分のことすらなかなか上手くいかないのだと再確認します。
それが試行錯誤のタネと思うと、結局は全てのスタートになる自分とどう向き合うのか、当たり前の堂々巡りを、ぐるりと見渡すことになるわけです。
研鑽はどこまでも続きます。