棒読み

役者にセリフを回させなくなってからかなり経つのだけれど、演劇関係者などから「棒読み」という指摘を受けることがある。
そんなにアニメーションを見ないからなのか、どういうジャンルの演劇を見慣れたら納得がいくのかわからないのだけれど、実は「棒読み」というのがよくわからなくなってからかなり時間が経っていて、台本を読んでもらっていても、セリフ特有の節回しの、乱暴に演劇的で大雑把な記号化によるロスの方が気になってしょうがない。
そもそも、場所の規模が小さい場合には、セリフではなく、言葉が発されることで得られる効果が大きいとのではないかという疑念を模索しているうちに、ゆっくりと、なにもかも変わってしまった。

実際、今やっている稽古を振り返っても、誰かの発した何らかの言葉を聞いての反応として、このセリフが出るなら、それはそんなタイミングだろうか。セリフを言い出す前に、それを言う相手に視線がいくとしたらどんなタイミングか、そうすると呼吸はどうなりそうか。そんなことばかり見ている。
今回は特に、どの瞬間に何処を見ているのか、どうしてそこを見るのか、見て息を吸うのか、吐くのかをずっと気にしている。
こうした実際に何かを言う前の動作や、視線を持っていくタイミングの方に、多くの刺激を感じる。
日常で何気なく垂れ流している喋ることに関連して生じる情報を再把握し、誇張せずに圧縮していく作業が、模索の中心になる。

文脈とは無関係に、この日本語なら概ねこう回すというやり方の上手い下手は、結局のところ役者の個体としての圧力しか生まない。
必然的に、人としての佇まいめいたものは、概ね身体性、身体表現の様なところに頼ることになるのだけれど、特になんの照明も当たらずに熱唱しているギター弾きのオッサンの舞台映えに驚き、音楽を羨むことはあっても、そこにどんな力が働いているのかという考察は、あまりされていないのではないだろうか。

ともあれ、血パンダでは身体表現や殺陣を伴わない日常の光景に近いフィクションをやることにしている。
ならば、日常にある身体のままで、どこまで圧力のある空間を作っていくのかということを考え続けている。

9月28日から新湊の新拠点、内川Studioにて新作、『どこかで』を上演します。
各回限定20席。チケットはPeatixからどうぞ。
https://blood-panda.peatix.com/

特になにもしないこと

そろそろ公演が近いので、忙しかろうがなんだろうがブログを書くなどして公演の宣伝に勤しまなければならない。

稽古をしていて、役者も徐々いろいろと練れていくわけだけれど、なにせ特に感情表現を完全に固めたり、登場人物の立ち位置や距離を決めてしまう様な演劇をやるわけでもないので、どのくらい思わぬいい瞬間をに出会えるかどうかが全てなので、ずっとセッションの打ち合わせをしている様なものだ。

先日、利賀村のシアターオリンピックスで『ゴドーを待ちながら』が上演されるということで、喜び勇んで見に行った。
幾度も読んだ台本なので、トルコ語で上演されていても視界の隅に字幕が出れば、どの辺かなんとなくわかるというのがまた、役者の力量をひしひしと感じることができて、演劇の力の様なものを実感できたわけだけれど、同時にこうじゃないなという落胆を感じた。
この方法で上演するなら、ベケットのゴドーも他の劇作家の戯曲も同じだ。
鍛えられた役者が正面を意識して立ち、渾身の力で演技をする様では、何もしない演劇の現在とは言えない。
このゴドーの演出に関して言えば、コントのひとつのシークエンスが終わったことを知らせるかの様な音と、「ゴドーを待つ」という度に出る嘆息の記号化があまりに露骨で、とにかく役者をむさぼり見るしかないのだと、全てを諦めさせられた。
確かに、ラッキーが長ゼリフを言い切った瞬間や、第二幕のウラジミールに思わず拍手しそうになった。
しかし、この時に感じた様な、思わぬ高揚感を全て捨て去った先にも、何かがあることは静かな演劇や現代口語劇が発見している筈だ。

正直なところ、ここまでストレートなものを今更見ることになるとも思っていなかったので、多少びびったが、役者の鍛えられ方自体は素晴らしかった。
同時に、こういう地点から、どこまで遠くなれるかという探索をしていることを再確認することになるわけで、力の限り行為する演劇から、どこまで離れられるかという模索は続いていく。

9月28日から新湊の新拠点、内川Studioにて新作、『どこかで』を上演します。
各回限定20席。チケットはPeatixからどうぞ。
https://blood-panda.peatix.com/

大好物の瞬間

書く台本が専ら日常系なので、日常に大好物な瞬間があります。

先日、友人が自動車の点検のためにディーラーに行かねばならんということで、他の用事のついでがあるものの時間的に行ったり来たりは無理ということで、同行することになりました。
私、無関係なのでとりあえず、ずっと息を殺してスマホを見ながら、会話は聞いているわけです。
「車でどこか気になるところはあるか?」と、担当者その1から友人に問いが行くわけですが、友人が「運転席側に人が座って、シートベルトしなかったら警告灯とか点かないのかな」と、問うたところ、「助手席に重い荷物を載せたりとか……」と、返事が始まります。二人で来てるわけで、とりあえず荷物きっかけで警告灯が気になったというのは、直近の現象としても適合しない気がします。
で、最初に対応してくれた彼は、「ちょっと聞いてきます」と退場するわけですが、次に登場した担当者2も、登場した瞬間に「助手席にお買い物の荷物を載せたりとか……」と始めるので、こいつはチェックのフローめいたマニュアルがあるなと感じ取れるわけです。
二人連れなので、子供なら後部席に乗って来ているかもしれない。助手席に乗って来たとしたら、シートベルトをしなかったけど、警告が出なかったというケースを先ず考えた方が普通じゃないかと考えるのが自然かと思うんですが、「運転席で警告灯に気付くとしたら」というシナリオを描いた場合は恐らく、「自分はシートベルトをしているのに、警告灯が点灯していた。助手席にはそこそこの重量の荷物を置いていた」というケースが最優先となっているのだと推察しました。
担当者2も、かなり懸命にフローチャートを踏襲している様子で、会話に時間をかけます。
担当者2はしかし、「あれ?このグレードの車に、助手席のシートベルト警告あったかな……」となって、ちょっと確認してきますとなりました。
で、担当者3が出て来て、また「助手席に荷物を……」と始めるんですが、最終的な結論としては「そもそも、そんな警告灯は装備していない」でした。このディーラーで扱っている車には、そういう機能が付いている方が少ない様な口ぶりでしたが、じゃぁ、どいつもこいつも、何に準拠して同じ流れから始めてるんやと、そこが非常に気になった次第。
人間、効率を求めて決め事をすると、基礎が揺らぎ、応用も利かなくなるという好例を見た様に思います。

もうひとつ。
先日、信号が青に変わったので発進したところ、信号無視で車が突っ込んで来て、事故を食らいました。
相手は、内定者懇談会とかいう謎のイベントに招集された大学四年生。会場が見えたので思わず気を取られたそうです。
非常に暑い日で、他にも事故が沢山あったらしく、おまわりに散々待たされている間に、向こうの保険の担当者が到着しました。流れで現場検証も終わっても保険屋は現場に居て、動かなくなった二人の車の回収待ち。
どうしたものかなぁという空気になったので、「保険屋さんさ、ちょっとパシらない?」と、500円玉を差し出したら、やや戸惑いながら500円玉を手に取ったわけです。
「パシ?なんですか?」
と問われるので、「パシリですよ。ええっと、お使い。お願いできませんか?」と噛み砕いて、まだまともに呼吸ができていない様なので、更に畳み掛けます。
「俺たちここでレッカー待っとくから、かわりにさっと、そこのコンビニ行ってきて欲しいなぁ。三人分。何飲みます?」
と、保険屋はそこで完全にフリーズです。表情からは戸惑いの色しか読み取れません。初体験ですかね。
青年に視線をやれば「いや、とんでもないです。すいません。大丈夫です」と反応があります。
「いいの?マジで?」と問いますが、固辞は変わりません。
保険屋は社会人何年目か知らないけど、青年の方が自分の呼吸ができていて、言葉が出て来くるわけで、たいしたものです。
保険屋の彼は、現場の通常のルーチンから外れた瞬間に呼吸が乱れて固まるのは、大人としてどうかしら。被害者と加害者の間に居て、被害者からお金出されて飲み物奢られるとか、そもそもどういう意図のものでもダメかもしれないなぁと推察するんですが、変な顔をしたままフリーズされると、「しょうがない。じゃぁちょっとあそこに見えてる自販機で……」と、一人で冷たい麦茶を飲むことになってしまって、ちょっと申し訳なかったものです。
いや、古いボロ車に乗っているもので、車がちゃんと修理されてくるのかはとても心配なんですが……。

ルーチンで喋る。呼吸を乱す。よくあるやつですね。
演劇がコミュニケーションの役に立つとか、毎度眉唾だなぁと思っていて、セリフ喋る人にも妙なルーチン感のある人や、そこでその呼吸か?浅くね?と見える役者、呼吸と声色やら口調がちぐはぐな器用な人も見かけることがあります。
血パンダでも、久々に、基礎練を整理しようかと思ってますが、やってると比較的簡単に、500円玉握らせたりとかできる様になります。案外、役に立つんですよ。

役者への要求

言い出しから口を閉じるまで、突然そのセリフの中だけで完結する感情表現を見るとつい、その前後の気持ちや思考はどうだったのか、言いながら、言い終わるまでに考えたことは無いかという質問をしてしまう。
喋りかけている様に見て取れる相手が居ればなおさら、その口調から現れる心持ちを、全て相手に見せてぶつけて良い瞬間か、それが妥当なのか。役者がどう感じて口走っているのかが気になる。

今演じて見せてくれた何処かでも見た気がする記号表現は、今の瞬間に本当に適しているのか、もっと緻密にできないのかという要求につながっていくのだけれど、それをスタートラインにして、実際にやってみてもらうことは、この「緻密」という言葉のイメージに反して、何もしないで喋ってみるところからになる。
一旦、感情が動いた様に見える喋りを捨てて、相手とどんな距離を取り、相手に対してどんな風に視線を送るかということの確認からスタートして、とにかく妥当さを模索し、可能な表現の経路を探る。

腹式呼吸で、正面を意識してという様式からスタートした作業のうちにか、何かモデルを見つけての模倣の作業うちにか、結局は、意味内容を把握する作業が抜け落ちた果てを多く見ている。そういった様式の緻密さだけで構成されていれば、それはそれで見ていられるが、残念ながら、面白いと感じられるものに出会える可能性は、田舎に住んでいると極めて低い。
そしてこれは残念ながら、一度この様式の範疇の集団だとわかって、つまらなかったら、どんな風に手を替え品を替えられても同じ結果になる。個人の様式への練度が集合しているだけの集団に自然に発生するカラーというのはそういうものだ。
実際、血パンダにも、本番の時点で出てしまう様式めいたものは存在している。

どんな要求をされるのが普通で、何を手がかりにして何を模索するのが稽古だと認識されているのかも、それぞれの集団で基準があるだろうが、最終的に空疎な記号だけを段取りよく並べられても、こちらとしては、結局その段取りの隙を見る結果になってしまう。
なにかもっと良い方法は無いものだろうかと考えてしまうが、結局は稽古場であれこれ模索しながら考えていくしかない。

6年前に書き込んでいたこと。

ちょうど、2013年の今頃にトライアル公演『発見』を宣伝していた。
結成後に市街劇を経て初めてお客を座席に座らせての公演になる。
当時、何にも使われていなかった氷見の漁業交流館で、残された壁を利用しつつ、そこに壁面を一枚足してL字型に舞台を囲んでいた。そんな意味では血パンダはプロセニアムの公演がほぼ無い。

基本的に、役者は互いの距離感と間の中で、自分が中心になることだけを考えてせめぎ合います。
それぞれの個体差の噛み合わせで、ある程度固定されている部分はありますが、全ての回で、ニュアンスが全く違うという可能性もあります。
あるセリフを辛辣にぶつけ合った日があれば、なんとなく慰め合う様なやり取りになる日もある。
今回は、人物の背景情報少なめなので、流れの圧力をお楽しみください。

距離の取り合いと、その距離感とセリフの整合性を合わせることが稽古の大部分になっていると、プロセほど退屈な舞台と客席の関係は無いという風に感じられる。
今は、これに加えて、人が同時に言葉を口走ったり、複数のセリフ間で思考が切れていない様子というのを、台本の段階から意識して書く様になっているので、空気を詰めたり解放したりをコントロールできる幅がもう少し増えている様に思う。